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放射線治療 中旬 [癌と経過]

 放射線科には、だいたい同じ時間に来るようにとの指示があった。照射室には一度に一人、十数分の時間がかかる。混みあわないようにという配慮だろう。
 毎日毎日同じ時間に行くと、待合室では同じように通院しておられる方と顔見知りになる。そのうち、言葉を交わす機会もうまれた。「あとどのくらいですか?」「私は今週で終わります。あなたは?」そんな程度でも、小さな空気抜けにはなった。なので出来るだけ声をかけるようにした。

「大丈夫ですよ。」と励ましてくださる人。
「お互いもうちょっとですね。」と励ましあえる人。
「全摘して乳房再生したいと言ったのに、温存と言われたんですよ!」と、まくし立てる人。

 それはそれはさまざまだった。こういう時に人柄が出るものだなぁ、それは病の程度には関わらないのだわ。みんな不安なのだ。私は、不安を表す人には、出来るだけ思いやりのある態度でいたいと思った。

 照射三週目ともなると、なんとなく横になる時間が増えてきた。病院に週5で通勤しているようなものなので、その疲れもあっただろうか。治療後のランチも買い物も億劫になり始め、さっさと家に帰るようになったのはこの頃からだ。
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放射線治療 初旬 [癌と経過]

 毎日ほぼ定刻に受付を済ませる。放射線科のドクターのお顔を拝んでから照射室に向かう。
「どうですか?」
「はい、別に何とも。」
「最初のうちはそんな感じですね。では頑張ってください。」
これから何がどうなるというのだろう。考えても仕方がない。小さな手書きのカレンダーは二枚。開始日と終了予定日が書かれている。治療のない土日には赤いバッテン。この用紙の最終予定日まで、私は只々通うのみなのだ。

 診察室から出て受付を通り、角を曲がって廊下の突き当り。検査技師さんのおられる所に声をかけ、テレビの前で順番を待つ。面白くない民放が流れていたのでチャンネルを変えたら、いきなり砂嵐になって慌てる。どうやら他のチャンネル設定がないようだ。
 名前を呼ばれて入った治療室には、いつもジャズが流れていた。希望すればほかの曲にもしてくださるそうで、落語でもOKと仰っていたけれど、笑ったりしても大丈夫なんだろうか。一本まるまる聴けるならともかく、オチが聞けないとフラストレーションがたまりそうだな。
治療台に乗り、腕を固定させる。光線が身体に引かれたマジックのラインと重なる。細かく調整されて体の位置が決まると、技師の方々が退出される。間もなく

ビーーー・・・

という音が聞こえる。照射音なのだろうか、照射を知らせる音なのだろうか。嫌な音だった。ちなみに、五週間の間、この音にはいちども慣れることがなかった。叫びだしたくなるのを抑えるためにはどうしたらいいか。いろいろ考えて、照射時間をBGMの拍数と小節数で割り出そうとしてみたり、心臓は何回打つだろうかと数えてみたり・・・という虚しい行為に及んだりもした。だからといって時間も回数も減るわけではない。胸式呼吸だと照射位置がずれはしないかと、腹式呼吸にしてみたりもした。

 照射一回当たり十数分のために、毎日一時間かけて病院に行き、一時間かけて帰る。最初のうちは治療の影響はなく、照射後は暇だった。病院を出ると、そのままドライブしてはランチだの買い物だのをしていたのだが・・・
じわじわと変化は現れた。
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古墳の上に立つ [ぶらぶら]

 まるでスカイダイビングをしているかのような図です。
bird`seye view.jpg

眼下に見えるは、卑弥呼の墓と推察されている「箸墓古墳」。黒塚古墳横に建設されている展示館にありました。すぐ横の黒塚古墳は整備されていて、見学することは出来ます。ところが、一歩踏み込もうとしたら、急な腹痛に襲われて叶わず。きっとダメって言われたんだわと、引き下がることにしました。
空の上からなら許して頂けるかも。竜の目線ってこんな感じ?
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続いて放射線治療 [癌と経過]

 退院したのもつかの間、数日後には外来に再上陸。オペ室での姿とは打って変わって、やはり先生は軽やかで明るかった。手術痕は綺麗にくっついていて翌週には抜糸ができるそうだ。そして次週からは、放射線科での治療が始まるという。なのでここで乳腺外科の先生とはしばしお別れ。しかしながら大病院はいろいろな科と設備があって助かる。

 治療の合間を縫って、学生時代の友人達と食事をすることになった。無事生還を喜んでくれる旧友の存在はありがたかった。
でも、
「私は胸が小さいから乳癌とは無縁かと思ってるんだけど。そうとは言えないのかしら。」
とか、
「健康診断を受けたら、結果待ちの間が不安で不安で・・だから受けるのは怖いわ・・」
とか言う人もいて、己の医療に対する考え方とのギャップに驚いた。私が検診を受けるのは、何もなければそれでよし、万が一何か見つかれば早期対応ができるから。無用な不安、遅きに失してことを大きくしないためだ。時間は巻き戻しできない。

 検査に対する意識の違いを知ると同時に、個人事業主や会社員の妻でない人は、健康診断自体受ける機会が少ないことも目から鱗だった。公的機関からの受診票は、受けなかったからと言って連絡が来ることもなく、忙しさにかまけているうちにいつの間にか期限が過ぎていたりする。「受けなきゃとは思っているんだけどね。」が、いつの間にか病状が進行している理由の一つなのだろうか。

 ともかく、楽しい夜だった。友人達と久しぶりに集い、お酒も少しいただいて元気を取り戻した。あとは時間が薬か。でも、明日予定していたイベントはキャンセルしよう。病気発覚前に申し込みも支払いも済ませていたイベントだけど、敢えてやめておこう。疲れをためないように。体がSOSを発する前に。

 
 翌週からいよいよ未知の放射線治療が開始された。先ずはこの治療についての説明があり、続いてCT検査となる。照射位置のマーキングをするための3D画像が撮られるようだ。
 放射線技師さんが二人以上ついて、看護師さんも最初はその場におられた。技師さんたちが男性だから、女性の看護師さんがいてくださるのだろうか?まぁ、半裸体で、自分で動くことは禁止され、時に持ち上げられたり捻られたりしながら、技師さんの顔が生身のすぐそばにあるのは正直緊張した。

 初回照射日はそんなこんなで数十分身動きが出来なかった。同部位に連続して照射するため、患部とその周りには入念に印がつけられていた。消えない様にずれない様に、バッテンの所にはシールが貼られる。動いてはいけないと言われると余計にムズムズするもので、唯一動かしても何も言われない足首を動かして、気を紛らわせていたww。
 五週間の治療期間の途中で減量したら、ボディのサイズが変わるだろうな、そうしたら照射部位も変わるのかな。その時は再度測定し直すのかしら(結局そういう嬉しい事態は起こらなかったが)。俎板の上の鯉というよりは、横断歩道の舗装をされているアスファルトってこんな気分だろうな。もしアスファルトに意識があるとしたらだけど。
取り留めもなく浮かんでくる考えに、何があってもおちゃらけている楽天的な自分を顧みる。ちょっとは客観的に周りを観察してみるか。身体に線を引く色は、青だの黒だの、これって何か決め事があるのかな。マーキング用の特殊インクなのかな。と技師さんの胸ポケット一杯に差してあるペンを見ると

マッキー・・・普通のマジックなんですね・・。

照射部位の計算に一日猶予が必要というので、実際には翌々日から照射開始。
 
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手術2 [癌と経過]

 手術終了は、予定時間を少し超えたらしい。 ぼんやりと意識が戻りつつあるなかベッドに移されたのを覚えている。意識がクリアになると同時に私は右手を左の脇の下に伸ばした。

「・・あった。」

「手術中にリンパ節転移が見つかれば切除します」と聞いていた脇には、手術前と同じくらいの皮膚の感覚があった。
転移はなかったのだ。

 部屋に戻ってからは、30分後 1時間後 2時間後・・・と、することが決まっていた。
足首を動かす
体を少し起こす
ベッドから足をおろす、それによって血圧の変化がないかが一つのヤマ。
次はトイレまで歩く

 少しでも早く原状に戻すことが回復にとって良いというのが今の医療の常識だ。ここまで順調。一晩スムーズに超えられることが次のステージ。同室の方達は手術当夜は激しい嘔吐に見舞われて、一晩中何度も看護師さんのお世話になっておられたが、わたしはそれもなく静かに夜を過ごした。とはいえ、翌日食後のトレイを配膳室に運ぶという簡単なことが、まだまだ厳しかったのも事実だった。
 お見舞いは全てお断りしていたので、来るのは家族と妹だけ。心配性の母が姿を見せないのを訝しく思ったが、何かあったとしても私には現状なにも出来ないし、それ以上考えるのは止めにした。(案の定であったがここに書くのはやめておこう。)

トレイを返しに行く足取りは、回を重ねる毎しっかりしたものとなり、院内のカフェに珈琲を飲みに行けるようになった。リハビリも順調だった。センチネルリンパ節生検のためにリンパ節の切開はしてあるので、多少の不自由はあったが。

 そんなふうにしているうちに退院の許可がおりて、六日後退院。入院時ぴっちりしていたジーンズの腿は緩々になっていた。



 
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手術1 [癌と経過]

 20年余り前、父が亡くなった。父は病発覚後緊急手術をし、一旦退院できたものの間もなく再入院し、そのまま帰らぬ人となった。病気について本人は何処までわかっていたのだろうか。母のたっての希望ではあったのだが、もし本人に病名を告げていたら・・・。退院した間にしたい事があったかもしれない。行きたいところがあったかも。会いたい人がいたかも。言っておきたいことがあったかも・・・。「どこに行きたい?」「誰に会いたい?」「何が欲しい?」今後起こるであろうことをわかっていながら何も聞けない。その苦しみは、当人に病名を隠しているからに他ならなかった。

 今や、ネットにアクセスして、症状や治療法、薬剤の名を入力すれば大抵のことはわかる。病名を本人に隠して治療を続けることは、いまの時代不可能だ。隠し通せるものではない。勿論病状にもよるし、自分の病気について知りたくない人がいることも事実だ。ただ、当人が病名を知ることで、医師と本人そして家族の間には壁がなくなる。労わり、慰め、共に泣く。病室では笑顔、廊下で涙という辛い二つの顔を家族に強いることはないのだ。命を前に隠し事をする事は余りにも辛い。自身に何かあれば、本人に告知してほしいという気持ちが確定したのはその時だっただろう。


 翌朝、はやくに夫と長男、妹が来てくれた。何を話したか何をしていたか、よく覚えてはいない。只々不安を押し殺し、無事を祈ってくれている気持ちは伝わってきた。繁忙期にもかかわらず「休んで病院に行くように」と言ってくださった息子の上司にも感謝申し上げたい。

 看護師さんに導かれ、手術室まで歩いて向かう。後ろに家族が連なる。年輩の看護師さんがある医療ドラマの話をされていて、私は相槌を打つものの実はそのドラマを見たことはなかった。大きな自動扉の前で立ち止まり、「家族の方はここまでです。手術が終われば先生が説明に来られますので、待合室でお待ちください。」と言われる。一瞬走る緊張。振り返って「ついでに余分な脂肪もゴッソリ取ってもらい。」と悪態をつきながら手を出す息子と握手する。

 再び看護師さんと二人歩き出した背中で、ドアは静かに閉まった。その先の2枚目の扉だったろうか、「ここが手術室です。」と言われて一歩踏み入れたそこには意外な光景が広がっていた。白い個室と思っていた手術室は広い銀色の空間で、幾つものベッドや機械やオペ道具が点在していた。銀色の空間の頭上に色を見つけ、見上げると、そこには何十インチになるのだろうか、大きい液晶画面があった。導かれたベッドの上には私の名前と、横に伸びる棒グラフが表示されていた。グラフの上の小さな数字は手術予定時間だった。患者ごとの執刀部位、オペ時間などがまるで飛行機の発着スケジュールのように映し出されているのだった。

 手術着を着用した担当医と執刀医の部長先生は、壁際に置かれた椅子に腰かけ、準備が整うのを待たれていた。白衣の時とは別人のようだった。担当医は緊張した面持ちで、部長先生は静謐ながら真剣に、共に深く呼吸をしながら精神統一なさっていた。命を預かっているという責任をその表情に見て、心底感謝の念が沸いた。
 指示されるままベッドにのぼり、二人の看護師さんによって手術の準備が始まる。点滴用の血管が確保される。
「麻酔が入るとき、少しだけしみる感じがしますが大丈夫ですよ。」
「はい。」
「では麻酔が入ります。」
 点滴針のすぐ下の血管に、擦りむいた膝に消毒液を塗ったかのような痛みを感じた。と、ほぼ同時に意識はなくなった。
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奈良の新しいお店 ほうせき箱 [ぶらぶら]

 といっても、私が行ったのではなくww もうかき氷を一人前楽しむにはちょっと力が入るお年頃です。姪っ子ちゃんが行ってきたようで、写真を拝借いたします。

こちらは一番人気というマンゴーとヨーグルトのかき氷。
kakigoori.jpg

かき氷とは言うけれど、氷はまるで雪のようにフワフワだとか。
どれどれ、他にどんな氷があるのかしらとメニューを見てみると

kakigoori2.jpg

これはやはり、ビーカーに入れて出してほしいと思うのは私だけ?
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旅から戻って [癌と経過]

 道案内の息子のスケジュールに合わせ、予定より一日短縮した旅だった。帰国便を待つ空港で、両替を入れた財布が綺麗に空になった。硬貨一枚すら残さなかった。
 帰国すぐ、お土産を持って母と妹に会いに行った。入院日が迫り、さすがにもう話さないわけにはいかなくなっていた。いいニュースのあとに悪いニュースを告げ、空気が変わったのをそのままに、そそくさと現地を後にした(笑)

 帰国後一旦空にした同じスーツケースに、今度は入院用品を詰めた。そう、これはすぐに帰る旅。私は元気になってもう一度ここに帰るのだ。

 指示された日の午後一番に入院手続きをした。建てられて間もない入院病棟は、テレビドラマに見るような清潔さだった。病棟を仕切るドアを通り、ナースセンターで名前を告げると、バーコードのついたアイデンティティバンドが手首に付けられた。「退院時まで外さないでください」というものらしい。とうとう人にもバーコードがつくようになったのねと思いながら病室へ向かう。

 はるか昔に入院したころ用意した「洗面具」「貸しテレビの契約」「付添い用簡易ベッド」などは過去の遺物だった。完全看護で原則付添いはなし。ベッド周りはすっきりとコンパクトにシステム化されて、小さな金庫まで付いていた。なによりの違いは、ベッドを囲むカーテンが常に引かれた状態だったことだ。短期間の入院とはいえ、お喋りのできる人がいる方がよかろうと思ったので大部屋を希望したのに、これは大きな誤算だった。「プライバシーがあってないのが入院患者」という常識は過去のものだった。(入院中、誰ひとり、カーテンが全開されることはついぞなかった。)

 ベッドが決まり、荷解きが済むころには、看護師さん、麻酔医、担当医、担当医と共に執刀にあたってくださる部長先生が、入れ代わり立ち代わり来られた。医師や看護師さんと患者とのコミュニケーションは、患者同士のそれとは違って多かった。「〇〇さ~~ん!」とカーテンの間からにこやかに顔を見せる女医さんは、告知をした時とは別人のようで、軽症の友人がたまたま勤務先に入院したかのように振舞ってくださっていた。

 その日、その他に特別何かをしていたのだろうか。決して楽しいわけではないので、同行した家族と何を話したか、よく覚えていない。いつの間にかひとりになっていた。早めの軽い夕食をとり、あとはベッドでひとり静かに夜を待つ。手術に不安はない。余計なことは考えず、起こったことと考えたこと感じたことは、今後何か役に立つかもしれないので書き留めるようにしよう。そう、それだけでいい。

 そして明日は手術。
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二人旅 [癌と経過]

結論から言うと、旅は楽しかった。

海外から戻ったばかりの息子は「パスポートがスタンプラリーのようだ」と言いながら、一昨日降り立ったばかりの関西国際空港を泳ぐように歩いていく。ジャイロ機能が壊れていると言われている私ひとり、久しぶりの海外旅行とくれば、きっと飛行機に乗り遅れていただろう。関西国際空港は広い。

初の台湾では、お約束のように故宮博物院に行き、夜市に行き、初回の観光客は行かなさそうなお店で揚げパンと熱い豆乳を口にした。息子の友人と合流し、地元で有名な飲茶のお店に行き、淡水という海辺の地を案内してもらった。

ホテルに戻ると、思いがけなくヨーロッパの娘が連絡をよこし、台湾でスカイプ通話することになった。心配と強がりとが複雑に入り混じった娘の顔は、海外暮らしで少し大人になったようだった。国際電話が高額で慌ただしく必要最小限だけ話した事や、手紙が届くのに少なくとも一週間はかかるために話題が噛み合わなかったのは遠い昔のようだ。
息子は私の体調を気遣いつつ、異国での安全に気を配りつつよくやってくれた。一人旅の次は母を守る旅。甘えん坊はうんと大人になっていた。

気がかりの種は探せばどこにでも落ちている。だからといって拾わなくていい。
いつまでも子。でも子供じゃない。負うた子に教えられ導かれ。
時代はどんどん変わっていく。

親の役割は終わったのだと知る旅だった。

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調べる 調べない

 告知と同時に、病院からは治療に関する冊子を手渡されていた。

 こういうものがあるということは、患者がそのくらい多いという事なのだろう。しかし読むのはまだいい。今しなければならないことはなんだ!?それを考え、行動に移すことの方が重要だった。
 ここから先は精密検査、手術、放射線投射、ホルモン療法とスケジュールは決まっている。レールは敷かれた。先ずは3週間後の手術。術後はしばらく動けまい。退院したあとは放射線治療がはじまる。温存療法とセットになっているということで、私の場合は週に5日を5週間連続投射が決まっている。放射線治療の副作用は人其々だというし、これもいくら考えてもしょうがない。

医師から腫瘤の大きさは聞いていた。2㎝が一つの区切りというが、私の場合はそれには満たないものだった。リンパ節への転移はどうだろう。手術の際に切開し細胞を検査に回すということだったな。それまではわからないということだ。仮に転移していてもステージは2である。転移していなければステージ1。
5年後の生存率は96.63%。

 ここまで調べて、以降、私は情報をあえて遮断した。

 ほんの少し調べるだけで、同時に様々な正確な情報とは言いきれぬものが目に飛び込んできたからだ。マンモによる被曝。細胞診で癌細胞が体に散る。放射線治療であらたな癌が生まれる等々。
 それが事実かどうかなど、知る由もない。マンモは受けたし、細胞診もした。過去には戻れないし放射線治療はまだ始まっていない。でもこれを断るつもりはない。
医療機関が公示している数値。エビデンス。今はそれだけでいい。データは発表する側の都合に良いように「見せられる」ものだとはいうが、それを疑い始めたらきりがない。
 
 我が家の様子をいつも塀越しに覗き見する隣人は、いつもにもまして慌ただしく出入りを繰り返す我が家の様子を、暗がりから亡霊のように覗いていた。これまでは不快感をもって見ていたが、今はそれすら惜しい。

「余計なことは考えない」

 母と妹に告げることは保留にして、関係先には連絡は済んだ。精密検査の日も決まった。入院に必要なものも揃えた。思っていた場所とは違ったものの海外旅行の手続きもした。

 今に集中すること、目標を作ること、そして思い切りと少しのお金があれば、限られた時間の中でこれだけのことが出来るのだ。なのに私は今まで何をしてきたのか。無用なことばかりに時間やエネルギーを棄てていたのではないか。

冊子.jpg

目の前から追いやったもののテーブルの隅には冊子を置いたまま、台所に立って私は初めて悔し泣きをした。

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